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ローチの生命力

氷河期を越えて

最も生命力のある生物は何か。ゴキブリをおいて他にあるだろうか。

私が浪人一年目で一人暮らしを始めたころの話だ。TVもビデオも無かったが、冷蔵庫はあった。中はたいてい空だったが。

ある日冷蔵庫を空けると、そこには弱りきった一匹のゴキブリがいた。何かのタイミングで迷い込んだようだ。一センチほどの小さいタイプだ。さすがに寒さには弱いようで、一歩一歩が極端にのろい。ゆっくりと右足を伸ばし、止まり、左足を伸ばし、歩こうとしている。俊敏な姿は見る影も無い。こうなるとこっちの手の中にヤツの運命はある。さてどうしてくれよう。

叩き潰すというのもいいが後が大変だ。汚いし。たまたま手元には、円筒形ケースタイプのポテトチップのフタがあった。薄白く半透明で円形のフタだ。それにヤツをすくい取って水を入れ、冷凍室に入れた。その後の処置は固まってから考えよう。

実はそれからしばらく冷凍室のヤツのことは忘れていた。二日ほどした朝、冷蔵庫を開けたときに思い出した。そうだ入れっぱなしだ。取り出すと想像通り、氷漬けになっている。フタごと窓から投げ捨てた。

その日たまたま忘れ物があり、それを取りに昼、家に戻った。そのとき今朝の例のフタを思い出した。見ると水が溶けている。当然だ。3,4時間は経っている。が、ヤツの姿は無い。アリが運んだのだろうか。水が糸をひくようにフタから伸びている。伸びた水の先には…

始めに捕らえた時と同じように、信じられないくらいゆっくりと右足を伸ばし、止まり、左足を伸ばし、ヤツが歩いていた。

生命への執着

それから一年。私はやっぱり浪人していた。田舎から東京に出て暮らし始めたが、汚いモルタルアパートは住居としては以前よりダウングレードしてた。冷蔵庫は同じものを使っていた。

隣家があばら家のような飲み屋で、ジジババが常連客相手に切り盛りしてるようだが傍から見ると誰が好んで行くだろうかと思える不潔さでメニューも少なく美味くもない。しかし潰れることもなかった。たぶんそんな立地のせいだろう、台所ではよくヤツを見かけた。

台所でのヤツの退治方法は決まっていた。有名な「ママレモン撃退法」である。ママレモンではなかったが、中性洗剤ならばどんなブランドでも可能だ。知らない人のために少し解説しておこう。ヤツに狙いを定めて洗剤をぴゅっとかけると、やがてもだえてひっくり返る。この段階ではまだ元気一杯だ。ひっくり返った腹側にもう一回洗剤をかけるのだ。そうするとものの数秒もしないうちに、激しくもだえていた四肢の動きが止まりこの世で二度と動かなくなる。この2段階目がポイントだ。

その日も台所でお出ましになられたヤツを極楽浄土へ導くために洗剤を狙い定めて撃ちだした。例の体長一センチほどの小型のヤツだ。丸々と太って胴体が羽根からはみ出して見える。洗剤が命中し、ヤツは壁から落下し、シンクに裏返ってあばれている。次に腹側に洗剤をかける。ばたばたと動く足の動きが弱まる。死ぬ。その刹那。

腹からぷるりと卵を出した。同時に全ての動きが止まった。死んだ。卵は体と変わらない大きさだ。先ほどまで巨大だった腹は、胸の下が切り取られたのではないかというくらい短くしぼんだ。裏返っていても羽根がほとんど見える。

死してなお命を残す。あの光景が焼きついて離れない。ヤツラより生命力のある生物を、私は知らない。


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