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悲劇の丸の内線

発端

突然満員電車で腹痛になった。原因は分かっている。前日の油分の多い物を食べすぎたせいだ。同じメニューで同じ症状になったことがあるので分かるが、トイレに駆け込んで下痢が出るだけ出ればそれで終わりのはずだ。できれば、目的駅まで耐えたいところだが大丈夫だろうか。それはちょっと無理そうだ。

立っていられないくらい苦しい。やや悶絶気味に体をくねらせてしまう。脂汗が額ににじむ。あまりの具合の悪さに近くの女性は心配そうに声をかけようかとしてくれているのが分かる。座れば便意も落ち着くところなんで座りたい。ところがこの満員電車、座ってるのは通勤オヤジばかりでそれが口裏をあわせたかのように揃いも揃って下を向いて寝ている。顔を合わすと席を譲らざるを得ないので絶対に顔をあわせないようにしているとしか思えない。少なくとも苦しむ私にはそうとしか見えない。畜生ちくしょうめ。

ここで「すみません気分が悪いので座らせてください」と言う、という選択肢も浮かんだが、それで治まって何駅も乗ってたのではなんだか格好がつかない。そこまで具合が悪ければ降りろよ、と思うのが普通だし、現状肉体もそうすることを要求している。立つにしろ座るにしろ次の駅で降りるのが最善の策だろう。なら立って我慢するか。次の駅で降りるぞ。次の駅、次の駅。次の駅までは1分2分といったところのはずだ。まだか。次の駅。1,2,3,4,5,6…数えてみる。まだアナウンスもない。減速もしない。まだ?まだなの?

苦しい時の1分はとてつもなく長いのだった。

長い道

駅につく。その駅は、ホームの両端に改札があり、その片方にトイレがあるという構造で、現在位置からは運の悪いことにホームの端から端に歩かなければトイレにたどり着けない。壁に手をつきはぁはぁ言いながら歩いていく。トイレトイレ。もう少しの辛抱だ。

トイレというのは不思議なもので、我慢してると、あると分かってる場所に近づくにしたがって加速度的に便意や尿意が強まっていく。トイレは皆が便意を捨てていく場所なのでだんだんと便意が集積し、そこに便意の重力場が形成されていくという仕組みに違いない。おおなんとすばらしい理論だ。こんな事態になってもくだらないことだけは頭が回る。よく「デザートは別腹」「酒は別腹」なんていうが、自分の場合は「くだらないことは別脳」だ。そうだそれに違いない。ほらまたくだらないことを考えているし。

行き着くところ

ようやくホームの端に到達する。階段を一段一段数えるように登る。そして改札の脇に見えるのは、トイレだ!ようやく着いた。全ての解決点。トイレには大が行える場所がちゃんとある。扉は開いている。が。

中をみて愕然となった。便器には下呂が(比喩ではなく)溢れかえっている。水面が上がりきっており、飲み屋で注文した升入りの日本酒のように、これ以上何を加えてもさらに溢れるだけという状態だ。いくらなんでもできない。無理だ。どうしよう。どうするオレ?

機転

とにかく他のトイレを探すのだ。ここではない最寄のトイレを。なんでもいいから。ふらつきながら壁伝いに改札に行き、駅員さんに聞く。ここから一番近いトイレはどこか、と。そこにありますよ。と駅員さん。いやそこはこれこれこうでとても使えない状態で、あそこ以外のところを探してるんです、しかも事態は一刻の猶予も無い深刻な段階にきているのです、という旨を説明する私。するとしばらく考えてから駅員さんはこともなげにこう言った。

「隣をお使いなさい」

「は?隣?」

最初何を言っているのか把握できなかったが、つまりは女性用トイレを使えということだ。なるほど最も近い使えるトイレだ。考えもしなかった。入ったこともないし。駅員さんの機転とはからいに感謝しつつ、じゃ、失礼してそうさせていただきます、とだけ言い残してまた壁伝いにトイレに向かって歩いていった。

結末

女性用トイレは2基あった。いや3基だったかもしれない。とにかく数は多くなかったことだけは確かだ。誰もいないので好都合だ。とにかく入る。紙もある。そこでついに私は解決を見出すことができた。ふぅ。安堵のため息も漏れるというものだ。しっかり出しとけ。出し尽くしておけ。

事を終えたあとでふと思う。ここで出ていって鉢合わせるのは具合が悪い。耳をすますとどうやら他のボックスには人の気配がある。そうだ。隣のボックスの人が出て行った頃合いを見計らって、出て行こう。うん。そうしよう。

女性のトイレというのは男性ほど分かりやすくない。上品に手順が進行しているようだ。それでもよくよく聞けば、手がかりはある。この水流しは音消しのためかな。たぶんそうに違いない。お、紙を巻く音だ。終わったかな。扉の開く音。うん。出て行ったようだ。1、2、3。さて、俺も出て行くとするか。扉を開ける。

扉をあけると、私の開けたトイレのドアに向かって並ぶ女性の長蛇の列があった。

肝をつぶしながら私は「すみません、すみません」とひたすら下を向きながら逃げるようにその場を離れた。女性たちは誰も何も言わずただ沈黙があった。騒ぎにならずに助かったが、私が驚愕したのと同じように女性たちも驚愕して何もいえなかっただけかもしれない。


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