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八丈島

12/16の金曜(代休)と土曜を使って一人八丈島へ。主にポストマップ 写真撮影目的。その他色々。

飛行機で行ったが初めて乗った飛行機も八丈島行きだった。大学院の研究室旅行だったか。隣の7研(絹谷幸二研究室)のメンバーと合同で。小さい飛行機で酷い揺れで、飛行機とはそんなものかと思ったら特に揺れの激しい日だったらしい。この日もそこそこな揺れ。

・曇天。風強く寒い。空港を出て目に付く土地の植物相の違いに離島を実感。

・植物相は、ソテツがあるという点よりも、本土にある雑草(セイタカアワダチソウやヨモギ)の勢力が弱いな、という点が気になった。これはあとで合点がいく。

・八丈島はひょっこりひょうたん島のモデル。ひょうたん型でふたこぶラクダのように山が2つ。

・北西部を周回する円弧は穏やかだが南東部周回ルートは険しい。特に登龍峠がスゴい。酔いやすい人は危険。

・コンビニもマックも無い。当然吉野家もケンタも。それなりに不安。

・ロッジに泊まる。置いてあった本が素晴らしい。「八丈島探索・学習ガイドブック」非売品で八丈町発行。八丈島の大抵のことは分かる。

・末吉から登龍峠に入る辺りの幹線道から外れたところに供養橋、という橋があり台座のようなものが橋の途中にあって奇妙に思ったが葬祭に関する行事で使われるようだった。これか→供養橋 末吉

・八丈島の見所。流刑地・火山・戦争(太平洋戦争)(日露戦争) 文化遺産は戦国時代から近代まで重層的に残っている

■宇喜多秀家
宇喜多秀家の墓を参る。調べると面白い。

・宇喜多秀家は関ヶ原で西軍の最大兵力を率いた中心的武将。

・関ヶ原後に八丈島に流される。江戸時代盛んになる島流しだが、江戸時代一号の八丈島流人が秀家。

・しかし関ヶ原を戦った武将の中で最も長く生きたのが秀家

・墓碑は写真左の小さいものが亡くなった時のもの。目視で確認出来なかったが「南無阿弥陀仏」しか彫ってない。約200年後の1841年に戒名が許され改めて作られたものが真ん中の大きなもの。

IMG_ukt.JPG

・石は昔の墓石らしく、脆そうな石だ。腐食の早い土地で、その上、名もない。そんな墓碑が200年綺麗に守られていたのはどれだけ大事にされていたことかと思う

・秀家は妻帯で、従者も連れ十数人で八丈島へ来たが質素に暮らしていたらしい。

・その後宇喜多を名乗ったのは本家のみ、傍系は宇喜田、浮田、喜田の順に血縁が薄くなる

・恩のあったものが秀家存命中はずっと毎年なにかと届けたりしていたらしい

・従者は加賀藩から使わされた者など。そのうち村田某という医者がいる。村田某は秀家没後に帰島を願い出、認められなかった。後年(明治?)認められると、村田氏は島に残り、代わりに浮田氏一族が村田を名乗り島を出る。残った村田氏は田村と名乗る

・などなど。調べると面白い話が多い。

■空港と戦争

・空港建設は死屍累々。北海道の開拓を思わせる消耗。

・で、その後出来た空港の利用は硫黄島への特攻隊というのが。

・回天の発射地もあり、港にはその痕跡の円筒形のくぼみも現存。

・第二次大戦だけでなくバルチック艦隊監視台などの跡も点々と現存。ただしバルチック艦隊監視台はその場に詳しい人が居なければ行きにくい場所、とのこと。

■近藤富蔵
ここらへんも調べると面白い。

■気候

・やはり腐食の進みが早いようで錆びたぼろぼろの車が多い。本土の車をみて「なんで綺麗な車が多いの?」とびっくりするとか(ロッジのおかみさんの話)

・台風ではまき上げられた海水混じりの雨が降り、台風一過で晴れる前に水をかけないと植木が枯れることも多いと。とにかく手入れが大変。

・植物相の違いだが、本土で大きな顔をしている雑草どもも塩分過多な土壌では生きのびれない、ってことがあるんじゃないかと勝手に合点した(誤解かもしれないが)

・たまに別荘にきては生い茂る雑草や侵食の早さから嫌になって売ってしまうケースも多いとか。

・八丈島に別荘、というと團伊玖磨氏。八丈島町立図書館には氏の寄贈のコーナーもある

■ヤスデ

・ヤンバルトサカヤスデを見た。わりと見ることが出来る。場所によっては大量発生したこともあるらしい。

・かなりの大きさと異様な風体に、ビビる。

・ヤンバルトサカヤスデは八丈島固有種ではない。元は台湾産で、沖縄を経由して鹿児島に上陸。特に鹿児島で問題となっていて、大量発生で列車の車輪が滑り、列車を止めたことがある。

・関東では神奈川、埼玉で見つかっている。ひとごとではない。

思い出したらまた追記。