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帰省の出来事:教育と環境

帰省で叔父宅に滞在しました。叔父宅には私の祖母も一緒に暮らしており、折角なので私の母も来ています。そんな風呂上りのひと時。

次女(二歳)がテーブルの綿棒を取って遊ぼうとするので

「取ったらいかんよぉ。危ないからねぇ」

と言う叔父を尻目に、私の母は黙々と綿棒や爪楊枝を次女の手の届かない場所に移しながら言いました。

「猫を追うより皿を引け、ってね」

微妙に諺の使い方としては違ってる。やってることは文字通りだけど。

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佐賀の叔父宅を後にして大分のおばあちゃんの家へ。おばあちゃんは一人で暮らしています。が、隣は義兄家族の家です。義兄の子、つまり私の甥=娘らの従兄弟が、小学校二年生になるんですがヤンチャで。長女のいい遊び相手です。

長女と甥っ子はいつも一緒に遊んでいますが、ばあちゃんの家の二階に篭ったきり、静かにしています。何をしているんだろう?私は気になってちょっと見てきました。木造二階の使われてない部屋は秘密基地という風情もあって良いのですが…

見ると甥っ子は、貯金箱に使っているガラス瓶をこじ開けて?かひっくり返してお金を取っていました。死んだおじいちゃんが集めた小銭か、大人の誰かが忘れてしまったもの、かもしれません。長女は無邪気に言います

「すごいんだよ、これ全部**ちゃんのお金だって!」

うーん。さてさて。困った。いろいろ考えたんですが、私は叱りもせずに、にっこり笑って黙って一階に戻りました。気づかなかったことにしよう。

少年時代のそういう悪さは身に覚えもあるし大したことじゃないと思うのが理由の一つ。そして彼を叱るのは私の役目ではないし、その辺の家族の湯加減というのも良く分からないし、家族にはその家族の方針があるだろうし、それに早晩バレることだ。私が今言うことはない。

一つ思うのは、私が彼の母親にそのことをチクったら、おそらく普通に発覚したとき以上に彼は叱られてしまうだろうなと。そういうタイプの母親に見えます。それを考えると、やっぱり言わなくていいことだ。それに、その後の行動とかバレるプロセスを見て見たいと思ったりもしたり。これは一日と経たずに実現。

その後、うちの長女が小銭を見せびらかす、発覚→おばあちゃん経由で彼の母親の耳に→こっぴどく叱られる、という流れ。彼は「自分が発見したから自分のだ」と主張していたらしい。なんかカワイイ。

でもなぁ。目に付くところにガラス瓶入りの硬貨があれば、そりゃ、そうなる。置いておく方も要反省だろう。猫を追うより皿を引け、だ。

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猫を追うより皿を引け、っていうのは、些末な対応をするのではなく根本を見直せ、というのが本当の用法。でも文字通りに「子を叱るより原因を取る」も、根本的なやり方と言えるかもしれません。

たまたま、同時期に友人の日記で「最近自己中の大人が多い、教育のせいだ」という内容がアップされ、それに対して「昔の教育がそんなに優れていたのかな。一人っ子の増加や核家族化、集合住宅の増加(トナリの声は昔以上に聞こえても遙かに疎遠な関係)とか、町内コミュニティの喪失、など環境変化の影響が大きいのでは?」なんてコメントを。たぶん書いた側はそういう環境も含めて「そう育てられたのだ」という意図だったと思うので私は揚げ足を取る格好になったかもしれません。

それはそれとして、考えるきっかけになりました。どうも環境要因をすっ飛ばした議論というのを見ることも多いなぁと。親が悪い教育が悪い、でなければ生まれつきだ遺伝要因だ、とかなんとか。環境要因は説明が難しいところもありますし。

仮に、交通事故があったとして。それはまず事故を起こした人が悪い。だけども何度も事故がおきる場所があって、見通しが悪かったり油断を誘う仕掛けがあったり、よそに注意がいくようなものがあったり、蜃気楼のようにある時間だけ罠が立ち現れては消えるようになっていたりする場所、というのは、あります。

そういう場所であってもやっぱりちゃんと注意してればだいたい事故にはならない。個別でみればやっぱり事故を起こした人が悪い。だからといって環境に問題がないかというとそうでもない。


リンクはしませんが、中学生か高校生の書いた文章で

「大人はイジメの原因をいろいろ言ってるけど、そんなのは単純だ、いじめた人が悪い。それ以外の誰のせいだという議論はおかしい」

という非常にまっすぐで胸のすくシンプルな主張を見たことがあって、それはそれで正論ではあるなぁと思います。でも大人はそうは考えていない。

水槽の魚が一匹イジメにあっている。イジメの先頭に立ってる魚を取り除いても、やっぱりイジメは起こるだろう。いじめられてる魚を取り除いても、やがてその水槽でイジメが起きる。おおざっぱにいうとそういうことだろうと考えています。答えは分かっていて、水槽を壊すなり、穴を開けるなり、画一的に水槽を並べるのをやめていろんな形を用意するとか、そういうことを考えています。


そういえば「親はなくとも子は育つ」というのも最近はめっきり聞かなくなったことわざ。世の中のことは心配するほどではない、何とかなるものですよ、という意味。

本当の意味から離れて文字通りにみても、昔の人は「教育」だけでなく「環境」で人は育てられるものだというのを、よく分かってたんじゃないかなぁ、とか思います。少なくとも今より。

「親は無くとも子は育つ」そんな言葉が消えていくのは仕方がありませんが、心配するほどでない世の中のほうが消えてしまってはいないことを願うばかりです。