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何故勉強しなければいけないのか?

分裂勘違い君劇場 - 子供の「どうして勉強しなきゃいけないの?」→ 勉強することの具体的で直接的で切実なメリットを説明

痛いニュース(ノ∀`):どうして勉強しなきゃならないんだよ!因数分解が何の役に立つんだよ!

を読んで。

勉強=役に立つ、という観点で意味を語るのはどうなのかと思います。

例えば数学を学ぶことで、自覚はなくとも論理的な思考は身についていきます。因数分解が何かの役にたつという近視眼的な理解をされても困るところです。あと役に立つ教科の代表といえば「英語」ですが、これだって実際に社会で使える、役に立つ、という以上に異文化を持つ人がどれほど異なった常識や思考をするのか、と驚き、知ることのほうが意味が大きいと思うんですよね。人が生きてく上で必要なものというのは職能、技術だけではなく、思想や信条、理念や信仰、そうした世界観を育み、形作る上で勉強は重要なのではないかと。学校で数学や理科、英語を学ぶことは、職業訓練校で旋盤の使い方を教わることとは根本的に意味が違うし、目先の役立つ処世術や技能ではない部分こそが基本教育として必要なことなんじゃないかと思います。

子供の頃からそんなに実益的なことを教えることが望まれてるんでしょうか。伊東家の食卓のような知識を増やせば人生素晴らしくなるんでしょうか。私はそんな教育は止めて欲しいし自分の子供には望みませんね。上手くいえないけどもそういうのって、小学生が筋トレのしすぎで筋肉が発達しすぎて骨の成長が却って阻害される、だとか、成長段階のピッチャーがカーブを投げすぎて骨が曲がってその後はあまり活躍できなくなる、みたいな話と似てるような気がします。子供の頃は、どのようなスポーツ選手を目指すにしても柔軟性を大事にバランス感を育てるのがいい、とか、ピッチャーとして大成するにはまず走りこみ、みたいなことと似ていて、基本部分の教育では直接何かの役にたつこと以上に先を見据えた訓練が大事で、そういうものに限って直接的な効果を連想しにくいものなんだろうなとも思うんですよね。


中学校英語って役に立たない、みたいな言われ方するじゃないですか。私はかなり役にたつと思いますけども。以下は違う話ではあるんですが私の中ではリンクした話なんでちょっと体験談を。

中学生レベルの英語力しかない私が初めてアメリカに友人Jと一緒に行ったときの話。LAからサンフランシスコに移動し、宿を取りたい。予約も何もしていない。さて何と言ったらいいのか。私は考えました。「宿を取りたいのだが/泊まりたいのだけども可能か?」という内容をどう訳せばいいんだろう?同行のJは、そういうことはなんでもない、という風情で余裕があります。…しかしながら、正直な話私は内心こう思ってました。「私は英語は得意ではないとはいえ、彼よりは勉強の成績は良いはずで、ボキャブラリにしても文法にしても、彼が素晴らしいとは思えないんだが、あの余裕はなんだろう?『旅行の英語』みたいなハウツー本に頼ってるようでもないのだけども、海外旅行の経験量の違いなんだろうか?」

そこで私は「今回はJが予約に行ってくれよ」と頼んでみました。彼は快諾し、フロントでカッチリしたカタカナ英語でこう言いました。

「ドゥ ユー ハブア ルーム?」

これには衝撃を覚えました。なんだそれでいいのか!これって定型句なのかもしれないけども、なるほどなぁ。上手い言い方だな。

その後、Jは先に帰国し、私は一人でアメリカを一周することになりました。その間、英語のボキャブラリが格段に増えるわけでも文法やヒアリングが磨かれたってわけでもありませんが、いいたいことは大体言えてコミュニケーションもかなり上手くなりました。それと先の例だけでなく、haveは柔軟に使えて便利だなぁと思ったり。たとえば近隣のどこかへ行きたい時とかホテルで「Do you have a map?」と言えば近隣の地図をくれる。か、見せてくれる。気の効いた相手なら「どこに行きたいんだい?」と来る。…といった具合に。

それにしても最初はそれこそ挨拶の言葉すらも分からなくて。「How are you doing?」 って、「何してるの?」って聞かれてるのかと思って「○○してるところ」なんて答えてみたり。学校では英語の授業で数限りなくやってたというのに。「How are you?」って。doingがついても付かなくても同じ意味だって気がつかなくて。そういう融通の効かなさや戸惑いは、多少はしょうがないですよ。(しょうがないねと言ってください、恥ずかしすぎるので)

限られたカードの中から最も使えるカードを探す、なければ素早く近似カードを探す、みたいなことが出来るようになったのかもしれません。にしても元々の英語力は中学生レベルであり、それ自体は変わらないんですがある種のコツを掴んだというか。

これって、自転車が乗れるようになった感じに近いかなと思いました。その最後のコツっていう感じで。もちろん中学レベルとは言え、基本的なベースが無ければどうにもならなかったのではありますけども。


教育って、自転車の乗り方を覚えることと似てると思うんだよね。自転車を買ってくれるわけじゃない。ましてや、どこかに連れてってくれるわけじゃない。競輪選手になるわけでもなく専門家や自転車製造/販売者を目指すのでなければ、必要はないかもしれない。江戸時代は誰もそれを知らなくて不自由は無かったわけだし将来的にバイクや車を利用するから必要がないかもしれない。だけどもそれって成長する上で必要なプロセスなんじゃないか。自転車に乗ろうとする苦労。痛み。成功体験。楽しさ。爽快感。風を切るスピード。行動範囲の拡大。あるいは逆に挫折経験であってもいい。社会での共通体験。単に乗れる便利さ以上のことがぎっちりと詰まっているという。

(080529:typo修正 伊藤→伊東 ご指摘ありがとうございました)

コメント (2)

admee:

さらっと読んだだけなんで、本題とは見当違いも甚だしいコメントかもしれませんが、書き込んでみたりします。

勉強って個人的に、考えるところでは。
結局、本人の意志しだいなんじゃないかな、と。

例えば、(現在でもそう思っていますが)小学校とかで音楽の授業があるでしょう。
あれなんかは、個人的には要らない授業の典型でした。
別にね、音楽が要らないんじゃなくて「音楽という授業」が要らないと思っているわけで。
授業として(という言い方も変だけど)「音を楽しむという楽しさを教える」授業であったらな、と思っていました(思っています)。
自分が受けた授業(先生)だけがそうだったってわけでもないと思うんだけど(逆もまた然り)。
なんていうのかな、別にさ、音楽ってさ、クラッシックだけじゃないと思うのよね。
でもなぜか授業でやるのは基本的に所謂クラッシックと呼ばれているもの。
もっとこう、根本的な音楽を楽しむってことを教えていいんじゃないだろうか、って小学校のころから思っていたりして・・・。
教養科目だろうしねぇ・・・。
(もちろん偶には、ほんと極稀に、ビートルズとかかかってましたけどね!
俺の子守唄ですよ!)

(脱線)
そういう意味では美術の授業も要らない授業でした。
風景描いたりしていること自体は好きでしたけどね。
というか、評価されることが嫌でした。
何故に嫌だったかというとですね、複数の先生にですね。
同じものを観てもらってですね、評価が転地まで行かなくとも僅差ではない
反対評価をもらうことがあったんですね。
そりゃね、しょうがないとも思いますけどね。
それで通知表なりに点数として点数付けられた日にはたまりませんよ。
コレが自分で選んで進んだ道、であるならば、評価されること前提だから当たり前な話にもなるでしょうが。
僕はただ、自分が描ける範囲で、描きたいように、描いただけなのに、ね。
(脱線)

んで、音楽の授業の話をしてみたんだけど、実は英語とかでも同じだと思うんだよね、根本的には。
英語の授業ってさ、少なくとも俺が受けていたころの授業はさ
所謂、文法ありきの、つまるところテキスト英語でさ。
(文法の構造的なものとか、そういうのとしては面白いとは思うよ、今でも)
でも、日本語話している自分たちと同じでさ、話せなきゃ、書けなきゃ、伝えられなきゃ、面白くないと思うんだよね。
(もちろん)そういうことに、自分が興味を持つ(欲する)ことが大前提なんだけど。
勉強を、勉強として、学んでるんじゃ、それって「英語の勉強じゃなくって、勉強の勉強」でしかないと思うんだよね。
そういう意味じゃ、小学校低学年のころに通っていた英語教室(個人宅)の方がよっぽどためになったと思うね。
何せ、楽しく遊んでいた感覚だからね。

まぁ、何が言いたいかというと、楽しまなきゃ駄目、ってことかな。

勉強が出来る(頭が良いという意味ではなく)人って、勉強に興味があるのかな?
それとも、その科目に対する興味を掘り起こす(意識的だろうが、無意識的だろうが)のが巧いんだろうか。

興味を持つ・・・大きいよねぇ、これ。
パソコンに興味持ってなきゃ、今頃こんな仕事、人生送ってなかっただろうて・・・。
(でも、数学も、物理も、駄目でしたけどね!(ぇ
まぁ、でも、興味持っちゃったら、授業無くっても、学んじゃうと思うんだわ、個人的には。

そして、まとめも無く、コメント終了(えぇぇ~

metro:

勉強の勉強、というのはよくわかります。

歴史なんかそうですよね。個々の断片を取り出せば、どれも面白い物語が詰まってて興味が尽きない。古代、中世、近代、日本、中国、西洋、文明の発生、戦い、勢力争い、崩壊…だというのに「歴史」という授業となると、それはもう苦行としかいいようがない。インデックス化され羅列した概略を淡々と覚え、暗記する。糞面白くもない。

全体像を薄ボンヤリとでも教養として知る、というのも無意味ではないとは思うし、それをやろうとするとああなっちゃうのもまぁ仕方ないのかなとも思うんですが、あれキツイですよね。せめてどこかの断片だけでも、各個人の興味のある部分だけでも深く触れることが出来て、面白さに気づくことができればきっといいんですけどねぇ。

勉強の必要性、というのに負ぶさって、意味のある内容であろうとする工夫が足りないんじゃないか、とは思います。(上意下達組織ではありがち)

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