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インターフェイス議論や美術的才能

jkondoの日記 - 「正しい」って何だろう

「はてな」という会社ではこれだけインターフェイスに関する議論がされているんだなぁ。
こんな会社、いいなぁ…


芸大を出た、なんていうと「凄いですね、才能というものですか、あそこはごく一部の天賦の才のある人だけしか入れないんだとか。」みたいな絶賛をされることがあります。誉めてもらう分には嬉しくもありますが寂しくもあります。この「才能」とか「生まれもってのセンス」なんてものは、実はあまり関係ないんですよね。で、そういう「才能」「センス」と誉める人に限って、つまりは「努力」だとか「工夫」「論理」「知識」と言ったものは美術や芸術、デザインにおいては無いと思ってる。


もちろん、名をあげるような美術家は、人と違う視点や新しいアプローチで作品を見せるから、そういう点では「天賦の才」と言えなくもない。けれどもそれは、ほかと違うビジネスを展開したりよそにはない品質を提供したりという実業家となんら変わりが無い。他店と違う味で評判のラーメン店主と何も違いがない。そういった人々に対して「天賦の才」「生まれもったセンスだ」と言うでしょうか。少なくとも美術家やデザイナーに対してほど言わないでしょう。「天賦の才」「センスがいい」と誉めるのはいかにも絶賛してるふうに見えてその実、ロジックや知識を否定しているに過ぎなかったりします。

一流の美術家やデザイナーというものは、見た目の美しさなど気にもとめない。「綺麗」「カッコイイ」みたいなことを誇るデザイナーというものはまともな美術教育を受けていない二流のデザイナーです。きちんと勉強したデザイナーなり美術家なりが腐心するのは、いかに機能するか。どこまで意図が伝わるか。そのためにはどうしたらいいか。ということなんですよね。その上で「綺麗」「カッコイイ」というのは、たまたま出る基礎的技術の一部だったり「まとまりを作るために統一感や規則性を作る」という作為の副産物であったりするわけです。

さて、どこにボタンを配置するか、というような、エントリでも話題になってる「正しい」インターフェイス論ですが、これには案外答が無いようでいて、あったりします。視線の流れを常に意識する、ということです。

人は、物体を面的に捉えていると思われることが多いのですが実は線的に捉えています。例えばそこに林檎があるとして、林檎として把握するにはまず、起点を見ます。テカっているところかもしれませんし、ヘタの部分かもしれません。そこからなぞるように輪郭を追って形を把握していく。

サイトの場合はどこでしょう?たとえば書類なら?見やすくするためには、わかりやすい起点を作るといい。ロゴマークであったり写真であったりするかもしれません。左上が有効です。なぜなら、横書きの文書という概略が把握できれば、自然と左上から右下にかけてみるように、なっているからです。(もちろん右利きが主流でアラビア文字のような流れが一般的な文化圏を除きます)

そしておおむね、見づらくないサイトや書類はそうなってますよね。

図であっても、ほかに見せたいものがいくつかあっても、目線の流れは滑らかな一筆書きで意図したコースに導きます。文化や生活習慣に則って。あるいは人体構造に則って。そして、混乱のないように法則を作ってあげる。あるページの構造は、次のページでも同じにしてやる。最初の段落の構造は次の段落でも同じ仕組み。そうやって組み上げていくと、デザインというものには案外答がでてくるわけです。決して「感覚」でも「センス」でもない。知識であり、論理なんです。

(とまあ、以上はわりとざっくりした話題でありわかりやすい基本的事例ですが、かなり細かい部分であっても、そういった視線や感覚誘導の論理は適用できていけたりします)

…なんてことを、プログラマに説明したところで「人によって違う、感覚の問題」「慣れの問題」とか言って不便なインターフェイスを平然と放置するような人は掃いて捨てるほどいますから。デザイナなんて所詮飾り付けの上手い人、という程度の認識なんでしょう。はてなで、こういう論理的なインターフェイスの構造の話題になると話の通りはよさそうです。が。

はてなの社長さん。アンケートも大事ですが、右がいいって人が40%とかそういうのはどうですかね。視線の動きとかそういう自覚しにくいことについてざっくりとアンケートで解決というのは。きちんとしたデザイナーを一人くらい会社で雇えばよさそうな気がしますよ。

追記061023:

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コメント (4)

Hyo:

>一流の美術家やデザイナーというものは、見た目の美しさなど気にもとめない。

私もそう思います
私が今の会社を辞めることにしたのは、この場所では上のような考え方を共感できない、と思ったからです

見た目上のレイアウト=デザイン、
差別化=デザイン、

狭量な考え方は、デザインだけじゃなく仕事の仕方にも蔓延してますね…

そういう要求に答えるのも仕事のうち、って言えば言えますが、やっぱり根幹部分じゃないですよね。
お疲れ様でした。(と言っていいのかな?)

お久しぶりです。yobotchです。
興味あるテーマだったので、ひとつコメントなどを。

ある本(※1)に「芸術の本質は、自分たちが推測する事実そのものではなく、それ以上に思わせることである」という言葉がありました。(残念ながらそれは誰が語ったのかは書かれていなかったのですが)

また、宮崎駿夫氏は「エンターテイメイントは、入口の間口が広くて、敷居も低いんだけど、入っていったら出口がちょっと高くなってたっていうもの」(※2)と語ってます。

私はどちらも同感するものがあります。
よく言われる事ですが、「才能」とか「天賦の才」っていうものと「テクニック」は別です。テクニックはある程度、修行を積めば憶えられるものです。(憶えられない人は残念ながら「才能」が無いのかもしれませんが……)

ロジック、、、この言葉は好きですが、とても僕に取っては難しいものです。(アタマも悪いので……)
デザインを考える時に、いかに使いやすく、見やすく、分かりやすく、を目指してロジカルに考えていっても、最後に残る「何か」、それがその人そのものの「センス」のようなものではないかと思うのです。だからデザイン(エンターテイメントも)は全てロジックで割り切れない「何か」があるのだと考えています。その「何か」が、ユーザーが無意識に見ていたものを、少し視点を変えて見せてくれる(ちょっと高くなる)事につながるのではないかと。

> 「綺麗」「カッコイイ」みたいなことを誇るデザイナーというものはまともな美術教育を受けていない二流のデザイナーです。
全く同感です。しかし、そんなレベルでのデザインがあふれているのも現実ですが。

私はロジックで割り切れない「何か」があるデザイナーを目指したいと思っていますが、こういうものは意識的ではなく、にじみ出てくるものなんですよね。

私はアタマのいい刺激になったのですが、ちょっと本題からはずれてしまったかもしれませんね。また長文にて失礼しました。

※1「おもしろいゲームのデザイン」オライリージャパン/オーム社刊
※2「風の帰る場所」ロッキング・オン社刊

私もブログやmixiはいつも拝見させていただいてます。いつも興味深いコメントをありがとうございます。

>最後に残る何か
確かにそうなんですよね。そういうものは、あります。
たとえば美術なら、印象派から派生した「点描派」(色彩の原色分解を点であらわすという、印象派の発想を馬鹿正直にズレた方向に追及した流派)という流れがありまして、今やその理論は評価されてないのですが、スーラだけは別格の評価を保ってたりします。同じ理論を共有し、同じ時代にともに行動をともにしてても、やはり彼だけは別格の高みにあり、作品からは「点描」理論以上の独特の空気が流れ、点描派のほかの画家とは一線を画す高みにいるという評価は永遠に変わらないことでしょう。
理論、理屈を越えて最後に残ったもの、そこに理論以上のなんとも言えない魅力があり、それこそが芸術の精髄、ということは、ありますよね。

ですが、そこまで次元の高い話ではなくて、知識や理論といった、いわば言葉で伝えられるものの力というのも大きく、仕事レベルであればまずそれで大丈夫なのに「才能」「センス」として思考停止してしまう傾向があるのはなんだかなぁと思います。

たとえていうなら(喩えばっかりで申し訳ない)「もし俺がイチローの肉体を持っていたら今頃大リーグでバンバン稼いでてさ、…」的な勘違いを持ってる人が多いというか。確かに生まれ持ったものもあるにしても、たぶんそれ以上のものが大きい。

(なんか低レベルな話で申し訳なくなってきた)

あと、本の紹介、ありがとうございます。すごく面白そうな本ですね。自分は最近は買っただけの本が溜まってきてるという状態で、全くもって恥ずかしい限りですが、今度探してみようと思います
(そしてまた増えるだけ、ってのは避けたいところ)

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